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蛙なく不審尋問蛙なく 名もなき小さき力なき それでも声をあげる 草や路上 汗にまぎれた生活の詩


by tatazumi
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春浅く左肝ひとつ  井之川巨

●春浅く左肝ひとつ  井之川巨

「じぶんの性格をひとことで言ってください」
と看護婦は言った
ん? 神経質か? 頑固か?
非社交的か? ネクラか?
「手術を目前にそれが気になったりしますか」
と看護婦は重ねて聞いてくる
手術が気にならぬと言えばウソになる
といってそれを気に病み
夜も寝られぬほど純情というわけではない
すでに三回外科医のメスの下で
辛うじて命を探りあててきたおれだ
神経過敏が極まっていま楽天派に転ずるか


「おはようございます六時になりました
きょうは一月二十二日木曜日です
検温の時間がまいりました
お部屋で静かにお待ちください」
病院の朝は看護婦さんの爽やかなコールで始まる
これでやっと咳や鼾や歯ぎしりや
夜陰に変幻するさまざまな鬼たちともお別れだ


おれが大事にしているヒゲが盗まれた
おれの顔の画竜点睛ともいうべきヒゲが盗まれた
「ヒゲは手術の邪魔です麻酔がうまくかかりません」
とドクターは言う
ヒゲはおれのイメージの不可欠の構成要素だ
群衆の中にいるおれを
友人たちはもう識別できないかも知れぬ
おれの悲しみをよそにかみさんは言った
「ああ さっぱりした!」


「これが左側の腎臓 こちらが右側の腎臓
こんなに黒ずんで見えるでしょこれが腫瘍です」
CTスキャナーの写真を見ながら
ドクターは右腎摘出手術について説明した
「腎臓を取ってしまってあとは大丈夫なのですか」
「二つある臓器を一つ取っても機能障害はありません」
ドクターは二つある腕時計の一つが故障しただけとでもいった口調である。
ぼくは左に傾いたからだをがったんごっとん
街の中を運んでいく自分の姿を目の裏に浮かべた


この肉が三枚肉 適度に脂がのってうまいよ
これが腎臓 いい色してるね
その下に出てきたのが腎臓 ちょっと色が悪いな
なんだ腫瘍ができているじゃないか
そんなもんは食えん
腎臓を切り取ったら傷口を縫い合わせて
また浮世とやらへ返してやれ


天井の壁紙に描かれた黒い流れのような模様
ベットに仰向けになり見ていると
不定形の黒いシミたちが色彩の小鳥になり花々になって宙を舞っている
地獄をさまよう病人に与えてくれる
天からのブレゼント


ベットに上半身を起こしてもらうと
目に見えるどちらが上なのか下なのか
分からなくなってしまう
まるで宇宙船の中にいきなり放り込まれたようだ


頭から手が生えていく
耳から手が生えていく
目から手が生えていく
口から手が生えていく
手から手が生えていく
手から足が生えていく
足が逃げたぞ ヤツを捕らえろ


そのお人形は青い顔をしています
長いシルクのドレスも青
頭にかぶった羽根帽子も青
手袋も靴も日傘も
身につけたキラキラ光る宝石もみんな青
こんにちはと言うと
こんにちはと答えます
お名前はと聞くと
サヤカちゃんですと言います
でも目はつむったままです
このお人魚は病んでいます

10
この一番安い病室は黄色い一枚のカーテンで
六つのベットが仕切られている
穴のあいた胃袋くさった肝臓
使い物にならない心臓などをかかえた男たちは
体にしみついた煙草のにおい
汗と精液のにおいをぷんぷん漂わせ
呻き声をあげて横たわっている
男たちはボロボロのわが身に向かって畜生!
と叫ぶがここまで自分をボロボロにした社会に
みんな一日も早く帰りたがっている

11
「お小水は何回でしたが?」
体温 脈拍 血圧検査といっしょに
毎朝看護婦さんから尋ねられる
「昼四回 夜二回です」
小便一回といっても決してバカにしてはいけない
泌尿器科の患者にとって
小便は唯一最大の検査データなのだ
「量もだんだん増えてきましたね」
看護婦さんは患者を力づけるように言う
放出され小便はすべて透明なガラス容器に蓄えられる
その分量 色調 透明度は一目瞭然だ
右腎摘出手術をうけたぼくの小便は
誰のものより少なく色も冴えなかった
それが淡い亀甲色に輝きいまなみなみと湛えられている
左腎一つだけで二つ分よく頑張っているなあ
と褒めてあげたい気分

12
病室の窓から東京の空が一望できる
晴れた冬の空にひときわ高く背伸びしながら
身を寄せ合っているのが新宿超高層ビル群だ
今日もみんなあの辺りの地上を忙しげに
行き交っているんだろうなあ
夜になると東京は光にあふれ巨大な星雲になる
だけど東京の夜空にほんとうの星は瞬かない

13
トンガ王国からやってきたサントス君
お国にいるとき日本のチャンバラ映画を見たので
日本にはまだサムライがいるものとばかり思っていたと言う
テレビでサントス君を見た晩
サムライに襲われ体中を斬られる夢をみた
傷の痛みに目がさめた
サントス君
日本にはいま刀をさしたサムライこそいなくなったが
背広にネクタイ姿のサムライが
いまも合法的によわい労働者や農民を
襲いつづけているんだよ

14
クニコ きみはやさしい娘だね
ぼくが脇腹を大きく切り裂かれ
痛みの国の山道をあえぎあえぎ登りつめようとしていた夜
きみはぼくを思って朝まで眠れなかったそうだね
それで分かった
道理であの夜の痛みの苦渋の七曲がりは
さほど辛いものではなかった
きみのやさしい思いが魔王の怒りを鎮めて
きっとぼくの命を守ってくれたのだ
ありがとう クニコ

15
「ぼくのこと覚えていますか」
制服制帽すがたの警備員のおじさんが
ベットの足元に立って言う
どうも見舞い客ではないらしい
といって仕事柄きたのでもないらしい
じっと見てると時間がスリップしていきそうな顔だ
胸にネームプレートが刻まれている
「白砂青松だ 全然変わらないじゃないか」
白砂清
ぼくら文学サークルのメンバーは
この美しい海辺の風景を姓にもつ男をみんな好きだった
「まだ書いてるの?」
「いま短歌をやっているんだ」
三十年あまりの時間は一瞬のうちに滑り落ち
おじさんの顔の中に少年の顔をよみがえらせた
友が去った後かみさんはほっとした顔で呟いた
「キミを逮捕にきたのかと思ったわ」

16
睾丸の捻転をおこして入院した青年
新橋の一流商社につとめる新人類サラリーマン氏
「ヒマだなあ」と言って
九時の消灯時間が過ぎても枕元の電灯を消さない
新聞をペラペラ
カセットテープをカシャカシャ
廊下をドタンドタン
お茶をズルズルーッ煎餅をカリカリッ
茶碗をガシャーン(あっやったあ)
引き出しをガタンゴトン雑誌をバリバリッ
一発ブーッ(くさいくさい)
静かになったのは朝の四時
自分を分析して「若いんで力が溢れているんですよ」
二泊三日の修学旅行のような体験入院をおえて
青年はガニマタ姿で出ていった
寝不足の隣人たちには一言の挨拶ものこさず

17
なあーに? テレビやラジオを聞くときは
イヤホーンで聞いてくれって?
なに言っているんだよ おじさん
入院してまで静かな別荘気分を味わいたいんなら
こんな大部屋じゃなくて特別室に入んなよ
いい年をしてから婦長にいいつけたりして
スパイみたいなマネはよしな
じゃあ おれたちも耳栓をする代わりに
おじさんも鼾止めの鼻栓と
告げ口止めの口栓をかってみるかい
おじさんは自分だけ被害者のつもりらしいが
被害者が同時に加害者だってことはよくあることさ
おじさんの自分勝手なおしゃべりやグチや泣き言が
どんなに同室の患者たちの気を重くしているか
まったく気づかないのか
病室はお通夜の席ではないんだ
気分が重く沈んだら 傷口がまた泣き出したら
ときにはドクターの処方箋より
ラッパや太鼓の音のほうが効き目があるのさ
おじさんも一人拗ねていないで
大空を飛んでくるミューズの囁きにちょっと
耳を傾けてみろよ

18
病人にとって夜は魔の時間
夜が更けると痛みの国からやってきた老婆が
時計の振り子で傷口の扉をたたきます
「はやくこの扉を開けるのじゃ」
「どうかそんなに扉を叩かないでください
病人がとても痛がっています」
「だからこの扉を開けろというのじゃ
わしがすぐ楽にしてあげる」
「どうか見逃してください
扉を開けたら病人は死んでしまいます」
「開けないと扉をぶちこわすぞ」
「いいえ開けるわけにはまいりません」
痛みの国からやってきた老婆は
なおも扉を叩きつづける
病院は歯を食いしばって扉をとざす
病人の傷口の扉をはさんで
押し問答は朝までつづくのです

19
「夜になると傷口が痛みだすのでツライ
それに熱は下がらないし食欲はないしユーウツだなあ」
と弱気の病人
「もう少しの辛抱です
奥さんのやさしい愛がある限りかならず良くなります
病気にはどんな薬よりも奥さんの
ビタミン愛がよく効くのです」
アラレちゃんそっくりの看護婦さんが
看護づかれのかみさんにウインクしながら
いろいろ励ましてくれる

20
手術の前日「私が担当になりました」
とベットの枕元に立ったのは少女のようなKさん
看護学校からやってきた実習生
おなかの産毛を剃って皮膚を傷つけてしまったり
点滴のチューブに血液を逆流させてしまったり
腹帯をきつく締めすぎたり
ちょっとした失敗はあったけれど
汗くさい背中を拭いてくれたり
初めてのトイレに歩行器を先導してくれたり
わがままな病人の面倒をよく見てくれましたね
抜糸の後ようやく入ったお風呂で
青いユニフォームをびしょ濡れにしながら
頭を洗ってくれたことが忘れられません
でもあの晩また熱が上がってしまって
ぼくはかみさんに叱られてしまいました
ようやく熱も下がり痛みも遠ざかって退院という日
青いユニフォーム姿がひとつも見えなかったのが寂しかった

21
わが家と病院の距離は片道一時間半
ここを大きな紙袋を下げてかみさんは毎日通ってくる
袋の中には洗濯ずみの下着類 手紙 新聞 雑誌
タッパウエアに詰められたおかず 果物 缶ジュースの類
病室に着くとさっそく食器類を洗い花瓶の花の水きり
わが家のニュースの報告
そしてベットの側に腰をおろすと
「回診ですと」
と看護婦の声に廊下へ追い出されてしまう
帰り道もやっぱり朝と同じ大きさの紙袋を
「どっこらしょ!」
      (詩集「石油を食いすぎた胃袋」より)
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by tatazumi | 2011-02-13 22:19 | 井之川巨 | Comments(0)